一晩過ぎても速水の苛立ちは収まらなかった。
デスクに足を乗せ、いつものチュッパチャプスを咥えたまま速水は考え込んでいた。椅子が軋んで音を立てる。
非が自分にあることは重々承知していた。
嫉妬の上の八つ当たり、なんて言葉にしてしまえば簡単だ。
それで納得できれば苦労なんかしないのだが。
「行灯も男だしなぁ……」
若い女の子に好意の目を向けられて、いい気にならない男はいないだろう。
速水自身だって、モテるのは悪い気しない。
だが、速水の恋が向かうのは田口なのだ。
いつからか忘れたが、傍にいてやりたいと、ただ曇りなく笑って欲しいと願うのは田口なのだ。田口だけなのだ。
女というだけでもっと田口の近くにいることができる。
その存在を憎く思わずにはいられなかった。
と、そこへ。
「失礼しまーーっす」
ノックの連打の後にドアを開けたのは、選りにも選って仁科愛実だった。
今一番見たくない顔だ。
一人で来たらしく、愛実は自分一人通れるくらいに開けたドアの隙間からするっと入ってきて、すぐにドアを閉めた。
速水のデスクの前に立つと、一度姿勢を正してからきっちり頭を下げた。
「仁科愛実、本日実習最終日です。短い間でしたが、ご指導有難う御座いました」
「あ、ああ…………?」
愛実の口上に速水は頷きながらも首を傾げた。
愛実は小児科で実習を行っていたのであり、同じオレンジ新棟とはいえ速水はノータッチだ。アクシデントで遭遇しはしたが、愛実に挨拶をされるとは思わなかった。
だが、速水の困惑を余所に、顔を上げた愛実は口調を軽くした。笑顔もどことなく子供っぽいものになる。
「速水先生って、こーへー先生のお友達ですか? 昔っから?」
「あ? ああ、学生時代からだが?」
「あ、じゃあ昔会ったのって速水先生なんだ」
「…………会ったことあったか?」
机から脚を下ろしつつ、今度は本当に速水は考え込んだ。
何せ、愛実のことはすっかり忘れていたのだ。
会ったとしてもスレ違った程度だろう。
「私がこーへー先生の傍へ行くと、大概髭の生えた先生と背の高い先生がいました。速水先生でしょう?」
「ああ、それなら」
「こーへー先生のことを誘う度に『何だこのガキ』って顔しましたよね。さっきみたいに。速水先生も昔と変わってないですね」
「……………………」
確かに。
愛実が入室したとき、脳裏に過ったのは「何だよこのガキ」だった。
速水は黙り込む。
そんな速水を見ながら愛実は微笑んだ。
年齢よりもずっと大人びた、優しい柔らかい笑顔だった。
「こーへー先生の傍に、あの頃と変わらずにいてくれる人がいるのは、私も嬉しいです。こーへー先生はそういうの信じてないから」
「え?」
速水は目の前に立つ愛実を凝視した。
愛実は伏し目がちになり、デスクマットの境目あたりに視線を合わせた。
「私は退院するとき、本当にこーへー先生とお別れするのが悲しくて、絶対絶対忘れないって泣きました。こーへー先生は『そうだね、僕も忘れないよ』って言ってくれたけど、でもきっと信じてなかった。私がそのうちこーへー先生を忘れるだろうと思ってたんです。こーへー先生が口に出して言ったわけじゃないけど、私はそう感じて……だからもう意地でも忘れないって思ったんです」
「……………………」
「だって悲しいと思いませんか? 忘れられてしまうだろうなって思うの。こーへー先生はそれでもいいやって思ってるから、尚更です。そーゆうのは寂しいと思います」
その通りだった。田口にはそういうフシがある。
自分の前を通り過ぎていく人を黙って見送って、それだけ。
速水は何度目になるのか、愛実をまじまじと見た。
今までとすっかり違う印象で愛実を見る。
田口に懐いていた子供は大人になった。
目の前にいるのは包容力を備えようとしている、発展途上の女だ。
田口によく似ていると思い、田口に憧れているんだから当然かとも思った。
田口の優しさを愛しているのに、田口に似た……似ようとしている彼女を嫌える筈がない。まるで娘を見る気分だ。
もう嫉妬は感じなかった。
「そんなこーへー先生の傍に、昔と変わらずにいる人がいるのは、いいことなんだと思います。だから…………」
考え考え話していた愛実は顔を上げて速水をじっと見た。
速水はゆったりした気持ちで愛実の言葉を待った。微笑を浮かべてさえいただろう。それぐらい、気持に余裕があった。
「傍にいて下さい」
「そうだな」
愛実は、誰のとは言わなかった。
だが速水にも解る。そして即答する。
速水の返事に愛実は笑顔になって、ぴょこんと頭を下げた。
「お忙しいところ失礼しました。ご指導、有難う御座いました」
「仁科」
挨拶して出ていこうとした愛実を速水は呼び止めた。
ドアの前で愛実は足を止め、再度速水の方へ向き直った。
椅子に腰を掛けたまま、速水は口を開いた。
「いい医者になれ」
「はいっ」
若さ溢れる元気な声で返事をして、愛実は部屋を出ていった。
残された速水は椅子から立ち上がり、大きく背伸びをする。
もともと背が高い速水にとって、背伸びをすれば天井がとても近く感じられる。
田口に会いに行こうと思った。
速水のカンが、今なら田口も手が空いていそうだと告げていた。
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