「田口祐輝の父親は誰だ?」
来ると思っていた質問に、田口は胸の中でひっそりと笑った。
ここから先は大芝居の始まりだ。
「知らない」
田口の返答に、速水は呆れてしまった。当然だろう。
「知らないってこたぁないだろうよ」
「知らないんだ。精子提供者は匿名だったから」
「精子、提供者…………?」
思いもよらない用語の出現に、速水は一瞬、用語の意味を思い出せなかった。
思い出して、今度はその用語が使用されるシチュエーションを思い出す。
最初の頃の速水の勢いは殺がれている。
「…………人工授精、したのか?」
「うん、そう」
「何でそこまで…………」
「子供が欲しかったから」
田口の言葉に淀みはなかった。
何が何だか解らないまま、速水の中で空恐ろしさだけが募る。
コーヒーを口へ運ぶ田口の、伏せた瞳からはその真意が見えない。
「お前、そんなこと言ったことなかったじゃないか」
「速水が訊かなかったから」
そう言って、田口は速水の顔を見てくすっ、と小さく笑った。
こんな場合だが、可愛らしい仕草だと思った。
「お前、ちらっとでも結婚して夫婦になって父親になる自分を想像したことってある? ないよな。でも私はそうしたかった。子供が欲しかったし母親になりたかった」
「だからってお前……人工授精なんて」
相手は必要なかったのか、と思う。
その速水の葛藤を嘲笑うように田口は言った。
「欲しかったのは子供だから」
伴侶は必要じゃなかったとその声が言う。
聞いた瞬間、速水は田口の頬を張り飛ばしていた。
細い田口の身体が振られ、田口はソファの上に倒れ込んだ。
コーヒーカップが床へ落ちて音を立てた。
「っつぅ…………っ。お前が女に手を上げるなんて知らなかったな」
「俺だって、女殴ったのなんか初めてだよ…………っ」
殴った速水自身よりも、殴られた田口の方が平然としている。
軽く頭を振ると、ソファから立ち上がって落ちたコーヒーカップを片付け始めた。縁が欠けたカップを眺めて苦笑すると、流し台から雑巾を持ってきて床に零れたコーヒーを拭った。微細な陶器の破片を雑巾で包むように床を拭うと、田口は立ち上がり雑巾を水で洗う。
その様子を、速水は呆然と立ち尽くしたまま見ていた。つまらない映画が目の前で流れていくだけだ。
一連の作業を終え、田口は再び速水の前へ戻ってきた。
「続きをどうぞ?」
そう言われても、速水に言葉は出てこない。
こういう時、直感優先で生きていた男は不自由だった。
「お前…………」
「うん、私のエゴだ。だから、付き合わせるのは悪いと思ったから、お前と別れた」
「言えば……お前が言えば、俺は喜んでそれに付き合った……っ」
「それは嘘だよ、速水」
さらりと決めつけて田口は笑った。
速水にも自信は無かった。
田口の言う通り、家庭を持つことも父親になることも考えたこともなかったから。
一緒にいることだけに、満足していなかっただろうか。
二人に将来がなかったのではなく、速水に将来が見えてなかったのか。
だから田口は何も言わないまま、全てを決めて実行したのだろうか。
考えれば考えるほど、どこかで何かを間違えた気がする。その、何処で何が、が解らない。
困惑する速水を余所に、田口は晴れやかな笑顔を浮かべている。
速水が殴った頬が腫れだしている。それなりに痛みはある筈だ。
それでも田口は笑っていた。
「これで隠していることはないよ。満足した?」
聞かなきゃよかったでしょう、とその瞳が言っていた。
藤原看護師は冷蔵庫から食料品用の保冷剤を取り出すと、絞ったタオルとともに田口に手渡した。
田口はちょっと視線で感謝の意を表して、それを頬に当てる。
「田口先生も嘘吐きですね」
藤原看護師の声に、田口は苦笑を浮かべた。速水に殴られた頬が痛む。
祐輝が見たら泣くかなぁと思ってから、藤原看護師に答えた。
「藤原さんにはお見通しなんですね」
「大体、速水先生もお勉強が足りないのよ」
「速水の専門外ですから……そこも狙ってたんですけどね」
藤原看護師が速水をこき下ろすのを聞いて、田口は苦笑を浮かべた。
この国では、人工授精は法的な婚姻関係にある夫婦、もしくは事実婚が成立している夫婦に限られる。産婦人科学会の方針だ。
パートナーのいない女性が、子供が欲しいから、という理由だけでは人工授精は行われない。
それだけで、田口の嘘は見抜けるのだ。
「速水先生は騙せても、私は騙されませんよ」
藤原看護師は事の真相を薄々知っている。だが、田口に尋ねたことはない。それが有難かった。
言いたくなければ言わなくていい、喋りたければ喋ってもいい。そういう態度に随分気を楽にさせてもらっていると思う。
「いいんです、速水さえ騙せれば」
どんな粗末な嘘だっていいのだ。
速水を騙し、真相に気付かせないまま、速水が田口に愛想を尽かしてくれれば。
今日の嘘は上手くハマったようだった。
「もう暫く私に付き合って下さいね?」
「仕方がないですね」
田口が言うと、藤原看護師は吐息交じりに返す。
その、呆れたような草臥れた口調が、本当はとても優しいことに田口は感謝した。
来ると思っていた質問に、田口は胸の中でひっそりと笑った。
ここから先は大芝居の始まりだ。
「知らない」
田口の返答に、速水は呆れてしまった。当然だろう。
「知らないってこたぁないだろうよ」
「知らないんだ。精子提供者は匿名だったから」
「精子、提供者…………?」
思いもよらない用語の出現に、速水は一瞬、用語の意味を思い出せなかった。
思い出して、今度はその用語が使用されるシチュエーションを思い出す。
最初の頃の速水の勢いは殺がれている。
「…………人工授精、したのか?」
「うん、そう」
「何でそこまで…………」
「子供が欲しかったから」
田口の言葉に淀みはなかった。
何が何だか解らないまま、速水の中で空恐ろしさだけが募る。
コーヒーを口へ運ぶ田口の、伏せた瞳からはその真意が見えない。
「お前、そんなこと言ったことなかったじゃないか」
「速水が訊かなかったから」
そう言って、田口は速水の顔を見てくすっ、と小さく笑った。
こんな場合だが、可愛らしい仕草だと思った。
「お前、ちらっとでも結婚して夫婦になって父親になる自分を想像したことってある? ないよな。でも私はそうしたかった。子供が欲しかったし母親になりたかった」
「だからってお前……人工授精なんて」
相手は必要なかったのか、と思う。
その速水の葛藤を嘲笑うように田口は言った。
「欲しかったのは子供だから」
伴侶は必要じゃなかったとその声が言う。
聞いた瞬間、速水は田口の頬を張り飛ばしていた。
細い田口の身体が振られ、田口はソファの上に倒れ込んだ。
コーヒーカップが床へ落ちて音を立てた。
「っつぅ…………っ。お前が女に手を上げるなんて知らなかったな」
「俺だって、女殴ったのなんか初めてだよ…………っ」
殴った速水自身よりも、殴られた田口の方が平然としている。
軽く頭を振ると、ソファから立ち上がって落ちたコーヒーカップを片付け始めた。縁が欠けたカップを眺めて苦笑すると、流し台から雑巾を持ってきて床に零れたコーヒーを拭った。微細な陶器の破片を雑巾で包むように床を拭うと、田口は立ち上がり雑巾を水で洗う。
その様子を、速水は呆然と立ち尽くしたまま見ていた。つまらない映画が目の前で流れていくだけだ。
一連の作業を終え、田口は再び速水の前へ戻ってきた。
「続きをどうぞ?」
そう言われても、速水に言葉は出てこない。
こういう時、直感優先で生きていた男は不自由だった。
「お前…………」
「うん、私のエゴだ。だから、付き合わせるのは悪いと思ったから、お前と別れた」
「言えば……お前が言えば、俺は喜んでそれに付き合った……っ」
「それは嘘だよ、速水」
さらりと決めつけて田口は笑った。
速水にも自信は無かった。
田口の言う通り、家庭を持つことも父親になることも考えたこともなかったから。
一緒にいることだけに、満足していなかっただろうか。
二人に将来がなかったのではなく、速水に将来が見えてなかったのか。
だから田口は何も言わないまま、全てを決めて実行したのだろうか。
考えれば考えるほど、どこかで何かを間違えた気がする。その、何処で何が、が解らない。
困惑する速水を余所に、田口は晴れやかな笑顔を浮かべている。
速水が殴った頬が腫れだしている。それなりに痛みはある筈だ。
それでも田口は笑っていた。
「これで隠していることはないよ。満足した?」
聞かなきゃよかったでしょう、とその瞳が言っていた。
藤原看護師は冷蔵庫から食料品用の保冷剤を取り出すと、絞ったタオルとともに田口に手渡した。
田口はちょっと視線で感謝の意を表して、それを頬に当てる。
「田口先生も嘘吐きですね」
藤原看護師の声に、田口は苦笑を浮かべた。速水に殴られた頬が痛む。
祐輝が見たら泣くかなぁと思ってから、藤原看護師に答えた。
「藤原さんにはお見通しなんですね」
「大体、速水先生もお勉強が足りないのよ」
「速水の専門外ですから……そこも狙ってたんですけどね」
藤原看護師が速水をこき下ろすのを聞いて、田口は苦笑を浮かべた。
この国では、人工授精は法的な婚姻関係にある夫婦、もしくは事実婚が成立している夫婦に限られる。産婦人科学会の方針だ。
パートナーのいない女性が、子供が欲しいから、という理由だけでは人工授精は行われない。
それだけで、田口の嘘は見抜けるのだ。
「速水先生は騙せても、私は騙されませんよ」
藤原看護師は事の真相を薄々知っている。だが、田口に尋ねたことはない。それが有難かった。
言いたくなければ言わなくていい、喋りたければ喋ってもいい。そういう態度に随分気を楽にさせてもらっていると思う。
「いいんです、速水さえ騙せれば」
どんな粗末な嘘だっていいのだ。
速水を騙し、真相に気付かせないまま、速水が田口に愛想を尽かしてくれれば。
今日の嘘は上手くハマったようだった。
「もう暫く私に付き合って下さいね?」
「仕方がないですね」
田口が言うと、藤原看護師は吐息交じりに返す。
その、呆れたような草臥れた口調が、本当はとても優しいことに田口は感謝した。
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