素晴らしい食卓に速水は声を上げた。
これだけ皿数が多いのは久し振りだ。そもそも皿を使ったのがいつだったか。
「満天」の定食につく味噌汁に比べると汁物が薄味な気がしたが、それを口にしたら「ケチつけんな」と怒られた。普段は何かと腰の引け気味な田口も、こと料理に関しては強気だ。そして速水には逆らうだけの腕前も権利もない。
ふと、向かいに座って食事をする田口を見る。今の姿は女だ。
女が男の家に来て手料理を振る舞う。女の方にも気合いが入っているが、それに合わせる男の方も大変なのだ。
視線で「美味しい?」と訊いてくる相手にテキトーな反応をすれば、たちまち修羅場に突入する。実際、表面が焦げた生焼けハンバーグを指摘して泣かれたのが一度、濁ったシチューに返答が詰まって空気が凍ったのが一度。
田口にはそれがない。元々が男友達なのだから当たり前といえば当たり前だが、実に気楽でいい。
この年になると恋愛の煩わしさはすっ飛ばしたくなる。こういう気楽な付き合いが出来る相手がいればいいのに。
「だったら二十年付き合え」との返答に、そりゃちっとも気楽じゃないだろ、と思った。
新作の発泡酒はそこそこの味だった。最近は発泡酒も出来がいい。
だらだらと喋くっていたが、田口の返答がだんだん間遠になるのに気が付いた。頭が揺れていて、先ほどから発泡酒がちっとも進んでいない。
「酔ったのか?」
尋ねれば田口は否定したけれど、それも口先だけだ。どう見ても酔っている。普段の田口の限界からは随分と早い。
今にも眠り込みそうな田口に、速水は溜息を吐いた。
呑みかけの缶を取り上げて田口を担ぎ上げる。普段より更に身長差があるので、田口の足先が辛うじて床を触るくらいだった。これは抱き上げた方が簡単だと判断する。幸いに体重も軽い。
膝裏に腕を差し入れ横抱きにすると、小さい身体はすっぽりの速水の腕の中に収まってしまった。
無邪気な酔っ払いが笑う。
「やっぱお前いーい男だよなぁ…………」
笑ったまま眠りに落ちた田口を抱え、速水はしばし呆然とした。
人体の重さが気にならないほど、呆気に取られていた。
「…………口説いてんのか、それ?」
そんな筈がないと思いながら、そうだったらいいと思う。
自分の外見が人より見栄えがするらしいとは、学生時代から認識していた。散々有効活用もしている。
だが先ほどの声からは、男が速水に感じるだろう嫉妬も、女が速水に感じるだろう欲情も感じられなかった。
本当に酔っ払いの戯言で、ただ楽しそうな声が田口らしい。
それが可愛いと思ったのは何度目か、もう数えるのもバカらしかった。
「おやすみ」
自分のベッドに押し込んで、田口の額にキスを落とす。
甘いなぁ俺、と思ったのはその後だった。
水音で目を覚ましたら、時刻はもう9時になっていた。
リビングのソファベッドに身を起こすと、台所に立つ女が見える。
鼻歌交じりに食卓を片付けていた……昨日の酒宴の跡を速水はそのまま放りだしていたのだ……が、その鼻歌がどうして滝廉太郎の「花」なのだか。流行り歌を知らないにしたって、不思議な選択だと思った。
食卓を拭き終えた田口が、起きあがった速水に気付いて笑う。
「おはよ」
「ああ」
この家で朝の挨拶を聞くのも、ずいぶん久し振りだと思った。いただきますといいおはようといい、昨日から久し振り尽くしだ。
「お前、仕事は?」
「今日は休み」
「へぇ。土曜日に珍しい。朝メシ、昨日の残りでいいな?」
言うだけ言うと、田口は速水の返事も待たず冷蔵庫を開ける。昨日買った卵を手に取って小さなボウルの中に一時置いた。
パタパタと働く田口の背中を見ながら、当り前のことを思い出す。
「お前、まだ女のままか」
「…………みたい。一晩寝たら元に戻るかと思ったんだけどな」
「そう都合よくもいかなかったか」
田口も流石に苦笑を浮かべて肩を竦めた。
どうにもならないものは仕方ない、と割り切っているようだ。
田口と話をしながらも、戻っていて欲しかったのか、速水自身の心中もはっきりしなかった。このままでは落ち着かない気もするし、もうしばらくこのままでいたい気もする。
朝食のテーブルに上ったネギ入り卵焼きの見事さに、コイツがこのままここに居ればいいと思ったのは確かだった。
これだけ皿数が多いのは久し振りだ。そもそも皿を使ったのがいつだったか。
「満天」の定食につく味噌汁に比べると汁物が薄味な気がしたが、それを口にしたら「ケチつけんな」と怒られた。普段は何かと腰の引け気味な田口も、こと料理に関しては強気だ。そして速水には逆らうだけの腕前も権利もない。
ふと、向かいに座って食事をする田口を見る。今の姿は女だ。
女が男の家に来て手料理を振る舞う。女の方にも気合いが入っているが、それに合わせる男の方も大変なのだ。
視線で「美味しい?」と訊いてくる相手にテキトーな反応をすれば、たちまち修羅場に突入する。実際、表面が焦げた生焼けハンバーグを指摘して泣かれたのが一度、濁ったシチューに返答が詰まって空気が凍ったのが一度。
田口にはそれがない。元々が男友達なのだから当たり前といえば当たり前だが、実に気楽でいい。
この年になると恋愛の煩わしさはすっ飛ばしたくなる。こういう気楽な付き合いが出来る相手がいればいいのに。
「だったら二十年付き合え」との返答に、そりゃちっとも気楽じゃないだろ、と思った。
新作の発泡酒はそこそこの味だった。最近は発泡酒も出来がいい。
だらだらと喋くっていたが、田口の返答がだんだん間遠になるのに気が付いた。頭が揺れていて、先ほどから発泡酒がちっとも進んでいない。
「酔ったのか?」
尋ねれば田口は否定したけれど、それも口先だけだ。どう見ても酔っている。普段の田口の限界からは随分と早い。
今にも眠り込みそうな田口に、速水は溜息を吐いた。
呑みかけの缶を取り上げて田口を担ぎ上げる。普段より更に身長差があるので、田口の足先が辛うじて床を触るくらいだった。これは抱き上げた方が簡単だと判断する。幸いに体重も軽い。
膝裏に腕を差し入れ横抱きにすると、小さい身体はすっぽりの速水の腕の中に収まってしまった。
無邪気な酔っ払いが笑う。
「やっぱお前いーい男だよなぁ…………」
笑ったまま眠りに落ちた田口を抱え、速水はしばし呆然とした。
人体の重さが気にならないほど、呆気に取られていた。
「…………口説いてんのか、それ?」
そんな筈がないと思いながら、そうだったらいいと思う。
自分の外見が人より見栄えがするらしいとは、学生時代から認識していた。散々有効活用もしている。
だが先ほどの声からは、男が速水に感じるだろう嫉妬も、女が速水に感じるだろう欲情も感じられなかった。
本当に酔っ払いの戯言で、ただ楽しそうな声が田口らしい。
それが可愛いと思ったのは何度目か、もう数えるのもバカらしかった。
「おやすみ」
自分のベッドに押し込んで、田口の額にキスを落とす。
甘いなぁ俺、と思ったのはその後だった。
水音で目を覚ましたら、時刻はもう9時になっていた。
リビングのソファベッドに身を起こすと、台所に立つ女が見える。
鼻歌交じりに食卓を片付けていた……昨日の酒宴の跡を速水はそのまま放りだしていたのだ……が、その鼻歌がどうして滝廉太郎の「花」なのだか。流行り歌を知らないにしたって、不思議な選択だと思った。
食卓を拭き終えた田口が、起きあがった速水に気付いて笑う。
「おはよ」
「ああ」
この家で朝の挨拶を聞くのも、ずいぶん久し振りだと思った。いただきますといいおはようといい、昨日から久し振り尽くしだ。
「お前、仕事は?」
「今日は休み」
「へぇ。土曜日に珍しい。朝メシ、昨日の残りでいいな?」
言うだけ言うと、田口は速水の返事も待たず冷蔵庫を開ける。昨日買った卵を手に取って小さなボウルの中に一時置いた。
パタパタと働く田口の背中を見ながら、当り前のことを思い出す。
「お前、まだ女のままか」
「…………みたい。一晩寝たら元に戻るかと思ったんだけどな」
「そう都合よくもいかなかったか」
田口も流石に苦笑を浮かべて肩を竦めた。
どうにもならないものは仕方ない、と割り切っているようだ。
田口と話をしながらも、戻っていて欲しかったのか、速水自身の心中もはっきりしなかった。このままでは落ち着かない気もするし、もうしばらくこのままでいたい気もする。
朝食のテーブルに上ったネギ入り卵焼きの見事さに、コイツがこのままここに居ればいいと思ったのは確かだった。
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